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京都伏見にある「向島城本丸跡」は豊臣秀吉が築いた城の一つであり、現在は宅地化のため遺構はありませんが、「本丸町」「二ノ丸町」といった地名が残っています。
元々は豊臣秀吉が月見用の城として築いた城ですが、伏見大地震で伏見城が倒壊した後は、この向島城に入り、伏見城が完成するまでの仮の居城として使われていました。
現在は、向島地域では城跡を感じられるものもなく、「幻の城」といわれています。
今回は、今も京都伏見の地名に残るなど歴史と深い関わりのある「向島城本丸跡」についてご紹介します。
京都伏見にある「向島城本丸跡」とは、豊臣秀吉が月見用に築いた城でした。
慶長伏見大地震で伏見城が倒壊した時は、完成までの間、秀吉は向島城を仮の居城として使っていました。
秀吉が亡くなった後は徳川家康の一時的な居城として使われていましたが、関ヶ原の戦いの後に伏見城が家康によって再建されると同時に向島城は廃城に。
向島城の廃材は東本願寺伏見別院の建立に寄付され、現在は埋め立てられてニュータウンの建築や宅地化で城跡などはほとんど残っていない状態です。
豊臣秀吉によって築城された「向島城」は、元々は秀吉の別荘として建築されました。
観月会と呼ばれる月見をするためだけに、秀吉は向島城の築城を計画していたのです。
秀吉から築城を命じられた前田利家は、築城工事と並行して文禄4年3〜4月にかけて、全国から桜の名木500本が向島の宇治川へ沿って移植されました。
また秀吉は、宇治川・淀川の氾濫による水害対策についての命令を出していることから、このエリアの災害防止対策がなされていたことが分かります。
しかし、マグニチュード7.0の伏見大地震が襲い、伏見城が破壊され、完成までの間、秀吉は向島城で過ごすことになったのです。
秀吉の月見のためだけに築城された「向島城」ですが、現在はニュータウンの建築や住宅地となっています。
向島城の城跡などはほとんど残されておらず、現地は国道24号線の奈良方面の歩道に案内板のみが立っているのみです。
また、向島城があったとされるエリアには、向島本丸町や向島二の丸町などの地名が現在も使われており、当時の名残として残されています。
現在の向島城があった城跡地はニュータウンや宅地になっており、城跡らしいものは残っていません。
しかし、周辺には古くから建つ家も残っており、歴史を感じられる街並みとなっています。
今も向島城本丸があったと推定されるエリアには、堀と池があったであろう面影や地形が残っており、戦前開発前からの集落域が周囲の街並みとの違いを感じられ、ノスタルジックな雰囲気を味わえるでしょう。
向島城本丸跡は、京都府京都市伏見区向島本丸町63−4の周辺に該当するので、お城めぐりや京都伏見の歴史を辿ってみてはいかがでしょうか。
京都府知事 (3) 第13382号
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