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京都伏見には数多くの御陵がありますが、その中の一つである「伏見松林院陵」は、室町時代の後崇光太上天皇が葬られています。
後崇光太上天皇とは、現在の皇室と旧皇族の祖先である「伏見宮貞成親王」のことであり、歴史深い場所でもあるのです。
大手筋商店街から徒歩数分の場所にあり、閑静な住宅街の中にひっそりと佇んでいます。
外から雰囲気を眺めることしかできませんが、京都伏見や日本の歴史を感じられる貴重な場所の一つです。
今回は、伏見宮貞成親王が葬られている「伏見松林院陵」についてご紹介します。
「伏見松林院陵」とは、室町時代の尊称天皇の後崇光太上天皇が葬られている御陵です。
伏見の松林院の東に位置しており、閑静な住宅街の中にあります。
現在は、宮内庁の管理下にあり、立ち入り禁止や竹木を切ることを禁止した立て札が立っています。
実際に城内には立ち入ることはできず、門の前から雰囲気を感じるだけになりますが、神聖な空気を感じることができますよ!
後崇光太上天皇とは、伏見宮貞成親王のことであり、現在の皇室とも深い関わりがあります。
現在の皇室も伏見宮家の系統であり、伏見宮貞成親王の男系子孫です。
小さい頃から今出川家で育てられ、40才の時に実家である伏見宮家に戻りますが、父と兄が相次いでなくなり、後継者となります。
しかし、兄を毒殺したという疑惑をかけられるなど、何度か難に遭います。
その後、53才の時に101代・称光天皇が危篤状態になると皇族に加えられる親王宣下を受けますが、称光天皇の回復後に逆鱗に触れてしまい出家を余儀なくされてしまいました。
称光天皇が崩御し、伏見宮貞成親王の子どもが即位し、102代・後花園天皇となります。
天皇の位に就く事はありませんでしたが、皇位を譲ったという天皇に贈られる「太上天皇」の尊号が与えられ、後崇光太上天皇と称されるようになりました。
しかし、慎重を期して翌年には天皇の尊号を辞退しており、康正2年(1456年)8月29日に亡くなり、伏見松林院陵に葬られています。
後崇光太上天皇の著作として、「椿葉記(ちんようき)」や「看聞日記(かんもんにっき)」があります。
南北朝から室町時代にかけて朝廷や幕府の動向、世相や芸能などについて幅広く紹介されており、当時の時代を知るのに貴重な文献となっています。
「椿葉記(ちんようき)」では、流暢典雅な仮名交和文体で構成されており、主に「祟光天皇流の歴史とその存在意義」について論じられ、伏見宮の歴史ついて知ることができます。
現在では皇室史に関する歴史書として価値あるものであり、草稿などは伏見宮家から宮内庁書陵部にうつされています。
伏見松林院陵は、月桂冠記念館のすぐ近くにあり、最寄駅から徒歩10分以内の場所にあります。
住所:京都市伏見区新町1丁目522
最寄駅:
・京阪伏見桃山駅 徒歩6分
・京阪中書島駅 徒歩7分
・近鉄桃山御陵前駅 徒歩7分
入場料や周辺に駐車場などはありませんので、公共交通機関で訪れることをおすすめします。
京都府知事 (3) 第13382号
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